「いつも決めるんですけどね、守れた試しがないんです。
ここはこうしよう、きっとああしよう、そうやって思うだけならば楽なんですがね、
いざやろうってなると、それで、どうにも何故か上手く行かない」
男の薄い唇から、囁くような声と共に、幽かな煙が零れている。
黒々と暗いヴェランダに月は無く、ただほんの僅かに漏れ出したダンスホールの光の端で、
辛うじて男の輪郭だけが、そっと浮かび上がっていた。
手摺に背を預ける様にして、だらしなく笑う男の傍で、女はゆっくりと目を閉じる。
頬に当たる夜風は冷たく、泣きたい程に澄んでいた。
「僕はねえ、臆病なんです。
失敗してしまうよりも、成功できることの方が、ずっと怖くて堪らない」
一際大きな歓声が上がり、囃し立てるような指笛が鳴った。ミドル・テンポのジャズが、
やや走りがちに流れ出す。いっちと、にっと、さんっと、し、いっちと、にっと、さんっと、し。
ダンスホールの真ん中で、何も考えられないほどに愛し合っている二人が、
きっとその手を強く握って、踊り狂っているのだろう。
丸くカットされたダイアモンドのような目玉に、互いの綺麗な恋を映して。
男はそっと伏し目がちに、女の顔を盗み見た。
きつく噛み締められて変色した唇と、柔らかな女の頬の内側のことを思った。
けれど今、暗闇の中で分かるのは、そっと閉じられた女の薄い瞼だけ。
一際強い風が吹いて、木々の葉音が大きく響いた。
男が右手に持っていたままの煙草は、既に短くなっていて、今にもその火は潰えそうだった。
女が乱れを整えようと、小さな指で髪を梳いた。
肌蹴てしまったショールから、嗅ぎ慣れたコロンの香りが漂う。
激しい風が止み、僅かに訪れた静けさの中で、男はそっと呟いた。
「あなたがどうか、決めてください。僕の提案は、いつだって駄目になってしまうから。
僕らふたりがこのままどこまで、なにをどうやって生きて死ぬのか、
あなたがどうか、決めてください」
もう一度、鋭い夜風が吹いた。女のドレスの裾から、衣擦れの音が幽かに聞こえた。
振り向いた女の眼や口元など、この暗がりの中では良く見える筈も無い。
それを見越した上での狡さだった。
互いの腹を探る様な真似は、明るい世界でしたくない。誰だってそうだろう、
そう思いながら男は左回りに身を捩り、手摺に胸からしな垂れ掛かる。
冷たく固い感触に、少しだけ喉がきゅっ、とした。
その感覚を振り切るように、男は勢いを付けて顔を上げた。
左の頬に、問いかけるような目線が刺さる。
女は、ずっと男を見ていたのだ。ずっと傍で男を見ていた。
暗がりでは何も見えない、男はそう信じていた。
けれども、女の眼差しはレーザーの様に、闇の中でも迷わない。
その眼差しを跳ね返そうと、男は覚悟を決めて振り向いた。
真暗闇に覆われて、何も見えない筈だった。
しかし、その時、本当に何故かその時になって、暗闇のヴェランダに一枚の光が投げられた。
同時に、男と女の足元から、浮かれきった若い声と、エンジン音が鳴り響く。
馬鹿げたパーティを抜け出して、どこか遠くに行くのだろう。
じゃれ付くようなパッシング音に、忍び笑いが重なった。
車から容赦なく届くヘッドライトの明かりは、ヴェランダの上まで刺さっている。
まるで舞台照明のように、その眩しさが二人を照らしていた。
強い光のなかで、男はただ立ち尽くす。
こちらを一心に見つめる女の眼。
そこに映された自身の顔。
全身に甘い痺れが走る。
男も、女と同じ眼をしていたのだ。
丸くカットされた、この世に二組ずつだけの、ダイアモンドみたいに綺麗で、
どうしようもなく、馬鹿な眼。
だから嫌だったのだ、暗がりの外で話すのは。
頭の悪い強がりも、張りぼてのような虚しい見栄も、意味がない。
ここでは何も隠せない。
硝子張りのドアの向こうでは、変わらず誰もが騒いでいる。
グラスが鳴らす乾杯の音。沢山の靴が踊る音。バンドの音。
それも、ここには届かない。
ヴェランダには、息の止まるような、静かな一瞬が永遠に流れている。
吹きつける風の中で、男はゆっくりと眼を閉じ、そして開いた。
照らし出された何もかもが、光で白く縁取られている。
女の、きらきらとした柔らかい髪に、風で飛ばされて来たのだろうか、
名前も解からない、美しい花が咲いている。
男はゆっくりと腕を伸ばし、優しく女の髪に触れると、その花をそっと手に取った。
そして、消えかけていた煙草の火を、静かに花へと移してゆく。
「抜け出そうか」と男は言った。
花はめらめらと燃えている。
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