君は泣かない子供だった。だまされても、ぶたれても、ぐっと歯を噛んでこぶしをぶるぶる震わせる。君はそんな子供だった。
あれはまだ4つの時。僕はよく覚えている。二人揃って通った、市内の小さな保育園でのこと。
あの日、君は楽しそうに、積み木遊びをしていた。君の手で積み上げられてゆく、とてもきれいな赤、黄、青。僕は遠くからそれを見て、つられて積み木で遊びたくなった。握りしめていた人形を放り投げた僕は、立ち上がり、近くに玩具箱があるのを見つけ、僕の遊ぶ分を取りに行った。ミニカーや鉛筆、縫いぐるみなどでめちゃくちゃな箱の底からお目当てのものを掘り返し、僕は意気揚々とそれらを抱えて歩き出す。しかし、小さな積み木たちは、僕の腕から次から次へと零れてしまった。何度か拾い直した後で、僕は君の傍まで行くことを諦めた。仕方ない、ここで遊んで、出来上がったら君を呼んで来よう。そう考えた僕は、窓辺の白い床の上に、持ち出した積み木をぶち撒けた。暖かい陽が窓の外から降り注ぎ、何処かで鳥が鳴いていた。とても気分が良かった。
うんうんと唸りつつ、白い板で門を作って、赤い三角をそこに乗せる。しばらくして、僕はお城を完成させた。最後に、棒で囲った庭へ小さな人形をふたつ置くと、お城は君と僕のものになった。とても力作だった。僕は君に見てもらおうと、君を呼ぶために駆け出した。きっと君ははしゃぐだろうと思った。君が笑う顔を考えて、僕は照れた。笑って欲しかった。
先ほどの場所に君はいたが、その前には、黒いシャツを着た大きな男の子が立っていた。男の子のせいで、僕からは君の足先しか見ることができないけれど、僕には君がいることが分かった。「なあ、」そう僕が声を掛けるより早く、彼は君の積み木を蹴った。赤い球体が、カンと乾いた音を立てて、真っ白な床を転がってゆく。開いたままの僕の口に、味の無い空気が絡みついた。ばらばらに散った積み木を乱暴にかき集めた彼は、あっちへ行けとでも言う様に、太い腕で君を突き飛ばす。
俯いたままゆっくりと立ち上がった君は、のろのろと、少しだけ歩いてから、顔を上げた。そこでやっと、僕は君の表情を見ることができた。
君は泣かなかった。いつものように歯を噛みしめて、ぎゅっと身体を強張らせていた。
僕は悲しい気持ちで君に近づき、今度こそ声を掛けようとした。しかし、僕はまた声を出すことができなかった。
君は笑った。今まで見たことの無い笑顔だった。嬉しくもない癖に、楽しくもない癖に。
心を裏切って作る笑顔の苦しさが、幼い僕の胸に雪崩のように襲い掛かった。その上から覆い被さるように、今この場で乱暴者の彼に対し、何もできない僕らの弱さが積もってゆく。たった一瞬、君が笑ったその一瞬に、僕の胸は押しつぶされて、そのままきっと止まってしまった。
僕は力任せに君の手を摑み、僕らの城の前まで、黙ってずんずんと歩いた。君は何も言わずについてくる。僕は城の前にしゃがみ込むと、ぐっと開いた手の平で、一気にそれをぶち壊した。門が、庭が、ばらばらになって崩れ落ちる。僕と君の人形は、折り重なる様にして倒れていた。
ぐちゃぐちゃになった積み木を、ずい、と君に押し付けて、僕はおえかきする、そのようなことを言って、僕は走って紙とペンを取りに行った。右の手の平から伝わるじんじんとした熱さが、僕をひとつ大人にした、そんな気がした。
あれから幾年の時が経ち、君は泣かないひとになった。そして代わりに笑うのだ。現実のささくれに、布を貼って均すように。
笑顔は年々、上手くなる。あの日僕に見せた、張り裂けそうな笑顔ではなくて、まるで初めから決まっていたかのような顔で、自然に君は笑うようになった。きっと今に、誰も君の気持ちに気が付かなくなる。僕にはそれが耐えられない。
僕の積み木を崩し、君に譲ったあの日から、持ちうるすべてを壊してでも、君に何もかもを捧げよう、君の為に生きよう、と僕は心に決めている。君が思うまま遊べるように、泣きたいときに泣けるように。
僕らを守る城でなくて、君を守れる家を作ろう。それだけを考えて、あの日からずっと生きている。
「悪いが、誰か二人ほど手伝ってくれないか。」そう言った教師の言葉に、僕はすっと手を挙げる。こういう事は、昔から僕の役目だった。避ける為に労力を費やすくらいなら、いっそ自ずから当たって砕けちまう方が好きだった。
僕に続き、遅れて手を挙げた君を見て、ひとりの生徒が慌てて声を上げた。「先生、自分も、お手伝いしま、す…」
十月の教室に、涼しげな風が吹き込んだ。生徒が恥らいながらも挙げた手は、青いときめきに満ちていた。
その時、僕はああ、と声にならない声を上げた。きっと、これは。
「先生、それじゃあ僕は遠慮します。」ひらひらと振った手を下に降ろせば、周囲からは笑い声が上がる。飛ばされた野次にウインクをすれば、笑い声は一層強くなった。
ついてくるように言われた二人は、立ち上がって教室の外へと向かってゆく。
君ももう高校生だ、向けられる好意の一つにでも、たまには答えてやったらどうだ。そんな思いを乗せて視線を送れば、くるりと振り向いた君が、笑った。とても自然な、張りつけたような笑顔だった。
そんな君には悪いけれど、僕は君の隣には居られない。僕が欲しい幸せは、君のものであって、僕が受け取るものじゃない。僕は、君とは暮らせない。それでは君を守れない。
申し訳ないとは思うけれど、僕は、君が本当に笑えるまでは、何度でも、何時までも、君を苦しめるつもりでいる。
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