リンク

TOP  

2019年7月3日水曜日

枯れ木に花を、微笑みを

 一命は取り留めた。
 それだけは読み取ることが出来たけど、他の言葉は、もう、何も。


『妹が身投げした。一命は取り留めたが、いつ目を覚ますか分からない。机の上に、君宛の遺書が置いてあった。現物は、夜が明けたら朝一番に郵送するが、二日は掛かると考えてくれ』
 シライシの兄から届いたメールを、もう一度開く。目が滑り、頭が文字を認識できず、何遍も初めから読んで、漸く内容を理解した。一命は取り留めた。生きている。大丈夫。生きている、けれども。知らず知らずのうちに握っていた服の裾が、酷い皺になっていた。僕はベッドに倒れ込み、枕に顔を埋め、声の無い叫びを上げる。足の裏から、震えが全身に回ってゆく。目には見えない不安感がワンルーム内に充満し、僕の呼吸を難しくした。
 瞼を閉じたままのシライシと、僕よりも激しく、強く祈っているであろう彼女の家族の姿が、交互に浮かんでは消えてゆく。今頃シライシは、病室で眠っているのだろうか。それとも、まだ手術室の中だろうか。苦しくはないか、ゆっくり休めているのか、悪い夢に魘されたりは…。
 嗚呼、どうか何事もなく、彼女が此方へ帰ってきますように。


 シライシとは、大学で出会った。僕は映画監督に、彼女は画家になりたかった。
 結局、紆余曲折の末に僕はクロサワではなく、中小企業の営業になったが、一方の彼女は夢を叶えた。それだけで食っていけるほどではないので、アルバイトもしていると恥ずかしそうに話していたが、作品で収入を得ているのだから立派なプロだ。もっと誇って良いと思っていたし、僕は彼女を尊敬していた。それに、何より、僕は彼女の絵が好きだった。淡い色合いで、境の溶けた柔らかな水彩画。頬の熟れた幼子や、巣作りをする渡り鳥たち、特に春の景色が一等上手な人なのだ。彼女の人柄から作った絵具で塗っているのだと、僕はいつも思っていた。優しく、温かな絵だった。
 僕が都内で会社勤めを始めた時、実家のある東北に戻っていたシライシは、一枚の絵葉書を送ってくれた。まるでたった今咲いたかのような甘い桜の花が、一面にざあっと揺れている、最高に美しい絵葉書。それをスケジュール帳に差し込み、僕は色の無い仕事を毎日どうにかこなしていた。そんなある日、営業先の奥様が、書類の山に咲いた桜色に気が付いて、僕に声を掛けてきた。知り合いの画家の絵です、と説明すると、自分も一枚欲しいから名前を教えてくれと言う。手元のタブレットで(本当は業務範囲外の使用にあたるが)彼女のホームページにアクセスすれば、その場で二枚も注文した。自社製品でなく、彼女の絵を売ってしまったなあ。そう思って笑っていると、息子である副工場長が、
「君の仕事はこちらだな」
と言って、普段の三倍も部品を注文してくれたのだ。
 それ以来、営業成績が振るわない時にはいつも、彼女の絵葉書が僕を救ってくれた。発注ミスをして、先方の事務所で酷く詰られた時も、頭を下げた拍子に懐から落ちた桜が、その怒りを解した。他社製品に切り換えると言って聞かなかった仕入れ担当が、絵葉書を見た途端に、
「おれも水彩画をやるんだ」
と言って、コロッと機嫌を直してくれた。おかげで僕は、同期の中で一番早く昇給することができたのだった。

 気が付くと、空は薄っすらと明るくなっていた。結露が滴る窓硝子に、朝焼けがキラキラと光る。彼女の事を思っていたら、あっという間に夜が明けていた。暖房を切り、顔を洗う為にのろのろと洗面台に向かうと、赤く腫れた目尻と鼻が鏡に映る。適当に水で流してからタオルで乱暴に擦れば、顔全体が赤らんだ。これで良し。何が良いのか分からないけども、僕はとりあえず声に出して言ってみた。彼女が絵を描き終えた時、よく言っていた台詞だったから。

 満員電車に揺られながら、彼女が自殺を図った原因について考えた。夏の終わりに電話した時は、とても楽しそうだったし、悩みも特になさそうだった。いったい、何があったのだろうか。
 その時、同期の男が彼女に絵葉書を依頼したことを思い出した。正直、彼のことは嫌いだったし、彼女に近づけたくなかった。芸術や、人の心の機微に鈍い男だと、身を以て知っていたからだ。けれど、あまりにしつこいので仕方なく連絡先を教えたのだ。確か先月くらいだった筈。出社したらすぐに聞こう。何か知っているかもしれない。
突然、電車が急停止した。四方八方から人の熱が押し付けられる。
「痛い、痛い」
と叫ぶ女性の声や、
「糞かよ、死ねや」
 とブツブツ呟く男性の声が聞こえてきて、僕の心臓は嫌な気持ちでドキドキと苦しくなってゆく。窓の外では不法投棄された家具が回収車に置き去りにされ、ランドセルを背負った子どもが道路に唾を吐いていた。
 見ているだけで、心が萎んでゆく景色。自分が歩かない道、自分に向けられていない言葉だとしても、黒い靄は胸に染み込む。世界を共有した存在を、僅かでも確かに傷付ける。
 ああ、なんて、汚い世界だろう。どうして僕らは美しく、優しく、温かく生きてゆくことができないんだろう。彼女の絵のような、淡く、柔らかな世界で生きてゆけたら…。
 頭をむりやり押さえつけられたような、酷いことをされたような気分だった。僕は、鞄に仕舞ってある彼女の絵葉書の桜色を思い浮かべ、息苦しさに負けないよう、両足に力を入れて踏ん張る。会社の最寄りまで、あと二駅の辛抱だった。

 会社に着いてすぐ、僕は例の同期を探した。フロア中央の休憩コーナーで、コーヒーを飲んでいる最中だった。
「お早う。あの、前に話してた絵葉書だけど…」
 そう僕が言うが否や、彼は唇を歪ませて笑った。
「ああ、オマエお抱えの絵描きね。あのクソみたいな絵葉書は捨てたよ。
ブッサイクな顔で泣いてさ、ほんと最高に面白かったわ」

 彼の顔とワイシャツが、薪のような深い茶に染まった。熱い、熱いと喚く彼を突き飛ばし、僕は馬乗りになって何度も殴った。
 人が駆け付けてきて止めろだなんだと手を伸ばしてきたが、僕はそれでも拳を振り下ろして、叫んだ。
「あんたの、あんたのせいか、シライシが自殺したのは!」
 自殺、という言葉を聞いて、彼の抵抗も周囲の制止もぴたりと消えた。僕は彼の首に指を掛け、締め上げながら前後に激しく揺さぶる。
「何をした、何を言った!」
 彼の口から、震えた声が漏れ出す。
「あの女には…『ヘタな絵を売りつけられて、皆が迷惑してる。客からクレームも入ったし、アイツはクビになるから、責任取ってオマエも絵を辞めたらいい』と…」

 あまりの言葉に、開いた口が塞がらない。この男は、何を言っているんだ?
 クレームなんて一度も無かった。解雇の話だって。
「すっかり信じ切って、真っ青になって帰ってったよ…」
 乾いた笑いを洩らす彼に、僕は心の底から訊ねた。
「何故、そんなことを。どうして…」
「前に、オマエの絵葉書を借りて、外回りに持ってたんだ…。俺も、営業成績が上がるかと…。ところが、その日は全滅だった…しかも、『こんなものを持ち歩いて、やる気があるのか』なんて馬鹿にされて…。むかついたんだよ」
「…あんたに貸した覚えはないぞ。勝手に持ち出したのか!」
「いつも、手帳に挟まってたから…」
 もう一度、僕は彼の顔を殴った。鼻からは血が流れ、唇は火傷で膨れている。
「だって、狡いじゃないか。自分の女が描いた絵をダシにして、客とベラベラ喋ってるだけだろう、どうせ…なのに、俺より先に…」
「…だったら、僕に直接言えばいい。どうして彼女に手を出した!」
「絵が…絵が無くなって、女にも振られたら、良いと思った…そんだけだよ…なあ、訴えたり…しないよな」
 僕は拳を振り上げた。

「おい、きみたち」
 部長が真っ青になって立っていた。
「どういうことかね、これは…」
 僕は立ち上がると、自分のデスクに向かった。鞄を取りに戻る為だ。
「ちょっと、どこへ行くんだ」
 慌てた部長の声を押し返すように、僕は言い放った。
「帰ります。“行くところ”があるので」
 振り返らずに、オフィスを出る。下行きのエレベーターを呼び、乗り込んだ。一階に着くまでに新幹線のチケットを取り、ビルを飛び出して駅へと走った。

 窓の外を過ぎる景色も見ずに、僕はじっと目を瞑って座席に凭れ掛かっていた。アナウンスが次の停車駅を告げる。もう間もなく、彼女の住む町に着くだろう。投げ出していた両手を組めば、冷えているのに汗にまみれて湿っていた。乾いた喉に、飲み下した唾液がへばり付く。
 改札を出て、バスターミナルへ向かった。プールで待機するタクシー達に手を振ると、ペールピンクに塗装された一台が僕の前に停車し、ゆっくりとドアを開けた。にこやかに笑う運転手に、絵葉書にあったシライシの実家の住所を告げる。でっかいスーパーが建った辺りだな、うんうん。そう一人ごちて、運転手はアクセルを踏み込んだ。

 運転手に断って、僕はシライシの兄に電話を掛けた。今タクシーで向かっている最中だと告げると、当然だが驚いていた。玄関チャイムを鳴らしてくれれば鍵を開ける、そう言ってくれて少し安心した。来るな、と拒絶されたらどうしようかと、今更ながら不安になっていたのだ。

 タクシーを道路に待たせたまま、僕は大きな一軒家のチャイムを鳴らす。三秒もせずに中から若い男性が出てきた。
「お久しぶりです、あの…」
「卒業パーティー以来、かな。来てくれてありがとう」
 深々とお辞儀をされて、耐えていた涙が少し零れた。

 僕がこちらに来たのは、勿論病院に見舞いに行く為でもあるが、彼女の作品の“無事”を確かめたかったのも理由の一つだった。あれだけ酷いことを言われたら、今まで描いてきた絵を、破ってしまったかもしれない。それだけは嫌だ。あの、綺麗で優しくて、温かいものをめちゃくちゃにしてしまうなんて。
 けれど、彼女の部屋に入った時、その読みが正しかったことを悟った。床に散った、美しかったものの破片。折れた筆。ゴミ箱の中の絵具チューブ…。悲しい色彩に溢れた、嘆きの空間が広がっていた。
「実はね、この秋から、立て続けにコンテストに落選していたんだ。それに、依頼されてた仕事も上手くいかなかったみたいで…」
 シライシの兄は、そう言いながら僕に封筒を差し出した。
「すまない、君からの葉書を見つけられなくて、住所が分からず…まだ送ってなかったんだ。あの子から、君への…」
 部屋の真ん中に立ったまま、僕は封筒の中身を…遺書を、読み始めた。

 怒りと悲しみが目の前を染め上げて、最後まで読み切ることが出来なかった。胸糞の悪い事ばかりじゃないか! あの同期の悪行が、遺書にはすべて書いてあった。
彼女は、僕の知り合いからの依頼だからと、気持ちを込めて頑張ってくれたようだった。彼の要望に従って、わざわざ飛行機に乗って、東京まで来て直に手渡していた。けれど、あの男は、絵葉書を見て、彼女の前で縦に横にと破いたのだ! そして罵倒した。約束の報酬も払わず、嘘ばかり並べて傷付けた。
『私のせいであなたが仕事を失う。不幸になる。私の存在は、絵は、疫病神なのだ。人を幸せにしたいと思って絵を描いていた、けれど現実は違ったのだ。申し訳なくて、幾ら詫びても足りない』
 震えた字で書かれた、僕への謝罪の言葉。抱く必要なんて微塵も無い、無実の罪悪感が彼女を苦しめ、橋の上から突き落としたのだ。
 僕は、足元に散らばった、“彼女の欠片”を拾い上げる。そうだ、作家にとって、作品は魂の、自分の一部と同じものだ。それを破かれる、自分で破く、その苦しみと絶望の深さよ!
 僕は必死に搔き集めた。一つも残さないよう、床に這いつくばり、拾っては鞄に詰める。このままでは終われない。終わらせない。脳裏に浮かんだ一つのヴィジョンが、嘆きに捕まりそうな僕を前進させた。
 直ぐに満杯になってしまった鞄を見て、シライシの兄がビニール袋を持ってきて、一緒に手伝ってくれた。ひとつ残らず回収すると、僕は立ち上がり、頼んだ。
「彼女のいる病院を、教えてください」

 シライシの兄と共に、待たせていたタクシーに乗り込む。ご両親は、少し前に入院の為の買い出しに向かったそうだ。なぜ一緒に行かなかったのか、と問えば、彼は息を吐きながら呟いた。
「君が、訪ねて来る気がしたんだ。何故だか分からないけど、家で待っててあげるべきじゃないかって、思ったんだよ」
 そう言ってから、今度は僕が問われた。
「君は…あの子の、恋人なのか」
 じっと、見つめられる。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ、答えを待っている。
「…僕は」

 学生時代に、少しだけ、好きになりかけたこともあった。可愛いな、いい子だな、そう思う事は多々、あった。
 けれども、違う。そうじゃないのだ。この気持ちは、愛は。

「僕は…彼女の、ファンです。大ファンなんです」
 彼女の絵が、好きだった。彼女の作品を、もっとたくさんの人に見てもらいたかった。彼女が、自由に、幸せに、いつまでも絵が描けたら良いと願っていた。
 僕はもう、映画を撮るどころか、脚本を書くことも、観ることすらしていない。最後にシアターへ向かったのは、何時だろう。あれほど夢中だったのに、諦めた。捨ててしまった。本当は辞めたくなかったのに。しがみ付くことも、努力することも、誇ることも投げてしまった。その癖、今でも作り出す喜びと苦しみだけは覚えていて、夢の中では五本も傑作を撮っていた。
 僕にとって、彼女は希望だった。愛するものを手放さず、愛するもので幸せを運ぶ。僕にとって、彼女と、彼女の絵こそが…。

 袋の中で音を立てる、幾百の“それ”を僕は撫でる。これは、紙切れでもゴミでもない。彼女の作品の一部、いや、彼女そのものなのだから。

 病院に着いてすぐ、僕は受付も階段も通り過ぎ、目的地へと向かう。彼女の病室の位置は、中庭を抱えた四方形のB病棟、西側の三階、右の窓際。
 まだ、目を覚ましていないかもしれない。これからやることを、怒るかもしれない。けれど、僕は証明したいのだ。彼女の作品が、絵が…そして、彼女自身が持っている、素晴らしい魔法の力を。

 自動ドアが開くと、冷たい風が僕の額を叩いた。十一月の中庭には、所々雪が積もっている。湿った枯れ枝、花の無い針葉樹、水の流れていない噴水。ベンチに座る人も、散歩をする人もいなかった。ぐるりと見渡すも、窓から中庭を眺める顔も見当たらない。皆、ベッドに寝そべって、暗闇か、白い天井を見つめているのだ。

 僕は、彼女のいるであろう病室が正面に来るように、枯れ木の後ろに回った。鞄と袋を開け、深く息を吸い込む。寝ている患者さん、お医者様、先に詫びます。ごめんなさい。

「枯れ木に花を、咲かせましょう!」
 自分でも驚くほど、大きな声が出た。四方の壁と窓に声が響いて、耳がわんわんと鳴った。
「日本一、いや、世界一綺麗な花でございます! 枯れ木に、花を咲かせましょう!」
 もう一度叫ぶと、数人の顔が窓から見えた。それを確かめてから、僕は、袋の中の“それ”を掴むと、一気に空へぶちまけた。
 撫子、菜の花、萌黄、桔梗。冬の寒空に、鮮やかな花が舞い上がる。濡れた枝を、コンクリートの小路を、彼女の作品が彩ってゆく。
「ご覧ください! 見る者を幸せに、元気にする花でございます! 愛で咲く花にございます!」
 何度も、何度も僕は握っては撒き、握っては撒いた。蜂蜜と若葉、月白、浅葱。珊瑚に竜胆、蒲公英、桜。柔らかな色、綺麗な色。彼女が混ぜた、彼女の色だ。気持ちと魂が籠った色。これは、花だ。生命の宿る、花なのだ!
「幸せを運ぶ、美しい花でございます! 枯れ木に花を、咲かせましょう!」

 彼女の病室から、僅かに顔が見えた。いま、誰よりも見たいと、一目会いたいと願っていた顔が…。
 僕は、精一杯に背伸びをして、彼女の元まで届くよう、天に向かって手を開く。
「世界一、素晴らしい花でございます! 美しい花でございます!」


 なあ、聞こえるかい。見えるかい。
 本当に素敵な景色だろう?
 色の無い世界を彩る。人の心に灯を燈す。君はそういう存在なんだよ。
 君の絵に、僕は何度も救われてきた。幸せと勇気を貰ったんだ。

 辞めないで、消えないで。
 どうか、ここで生きてくれ。君の世界を、これからもずっと、僕たちに沢山、見せてくれ。


 向こうから、警備員が駆けて来る。僕は空になった袋を抱えて、一目散に逃げ出した。

 伝わっただろうか。分かってくれただろうか。
 中庭を飛び出した僕の耳が、すれ違いざまに明るい歓声を拾った。

「まあ、綺麗ねえ」

 病院の敷地を出て、道路まで出て、道なりに真っ直ぐ僕は走った。
 後ろを振り返る余裕はなかったし、そうするつもりもなかった。
 脚が痛んでも止まらずに、ひたすらに僕は走った。
 息苦しくても、眩暈がしても、喜びが後から湧いてきて、僕の身体を軽くした。

 窓硝子の先で、確かに君は笑ってくれた。僕にはちゃんと見えていたよ。
 良かった、ああ、本当に。

「良かったあああああっ!」
 腹の底から、吠えた。階段を二段飛ばしするように宙を駆け上がり、太陽と拳を合わせる。

 拭えども流れる大粒の涙が、僕の笑い顔を飾っていた。
 最高に晴れた気分だった。

0 件のコメント:

コメントを投稿